人間是什麼樣的東西?(一)

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  • Traditional Chinese 
Dec 18, 2017 01:04
最近有機會討論凍卵,人工授精和代理出產等的事情。
用這次的機會,我想回顧一下從前要思考的「人間是什麼」的話題。
為了整理我現在的想法,我在這裡幾次紀錄下來。

冒頭提到的一樣,科學技術和服務的發展很驚人。已經付錢就什麼都能實現的樣子。先保留的話何時可以用年輕時候的卵子和精子。對方的精子和卵子也買就不用找不用認清伴侶,而且不需要對於授精率煩惱。如果自己困難生小孩或是麻煩的話,可以請別人生小孩。活著有可能將來人工子宮幫你生(不需要用人的身體)。顧小孩也可以利用服務人。如果學校的活動等的時候需要父母親的話,聽說已經可以租的。

沒有自己洗襯衫,利用洗衣店。付錢解決是我們日常做的事情。(「我的人生時間是限定的!沒辦法於那些浪費時間!」
我也洗衣時候用洗衣機,定期用洗衣店,會做計程車,飛機。我也是付錢解決的其中一個人。

伯特・海靈格在他寫的書裡說 「如果老公無法生小孩的時候,老婆為了生小孩跟別的男生做愛或利用別人的精子人工授精的話,這表示老婆沒有接受如實的老公。(中略)要是沒辦法接受包含對方的限界的如實的他的話,以那些他的限界會引起的所有的結果當作理由著分手比較好」。
我本來是按照「如果兩個人之間沒有被授予小孩是,需要面對這樣的現實」的人。
可是,這面對也是對我來說也很不簡單的事情。要是付錢就能解決的話,有人在利用的也很有道理。
我想起來我一開始上班的那時候一本書「一日一言」裡看到過的坂口安吾的一句話。
「即使法隆寺、平等院都燒了,也沒什麼好困擾。若真有必要的話,甚至可以將法隆寺折毀,蓋成停車場,(中略)替代月夜的景觀光輝霓虹燈(中略)這不是美的話還是什麼呢(中略)若真有必要的話,一定會在那裡也會出現真正的美。因為在那裡有真實的生活」
培养生命也只是按時代的變化而應有的狀態上有變化而已的?
先日、卵子の凍結保存や人工授精、代理出産などについて議論する機会があった。
以前から考えてみたいと思っていた「人間とは何か」という部分について、これを機に少し立ち止まってみることにした。
現時点での考えの整理ということで、数回に渡ってここに記しておきたい。

冒頭に記した通り、科学技術とサービスの発展は目覚ましく、もはやお金さえ払えばできないことは無くなってきている。保管しておけばいつでも若い頃の精子や卵子を使うことができる。対になる卵子や精子を買えばパートナーを探したり、見極めたりする必要はないし、受精の確率に悩まされることはない、自分で産むのが困難、或いは面倒であれば他人に産んでもらうこともできる。あるいはそのうち人工子宮で人の体を使わずに産めるようになるかもしれない。子育てもサービスを利用できるし、参観日等で必要があれば、父親や母親もレンタルできるらしい。

ワイシャツを自分で洗わず、クリーニングに出す。お金を払って解決するということは、私たちが普段から行なっていることだ。(「私の人生の時間は限られているのだ!そんなコトに時間を費やしているヒマはないのだ!」)
私とて、洗濯には洗濯機を買い、クリーニングも利用し、タクシーにも飛行機にも乗る。お金で解決している人間の一人なのだ。

氏の著書「ファミリー・コンステレーション」にはこうある。「夫に子供ができなくて、妊娠するために妻が他の男性と寝るか(その精子を使って)人工授精するなら、彼女はありのままの彼を受け入れていないということであり、(中略)彼の限界(子供ができない等)も含めた上でありのままの彼を受け入れることができないのであれば、彼の限界がもたらすあらゆる結果を理由に彼女は別れるほうがいいのです」。
私は「子供ができないということは、そこに向き合う必要がある」と考えてきた人間の一人だ。
しかし、この向き合うということは自分を省みても、全く簡単なことではない。お金を払って解決することができるなら、利用する人があるというのは自然な選択とも言える。

社会人になりたての頃、書籍「一日一言」で目にした坂口安吾の言葉を思い出す。
「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。(中略)月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。(中略)これが美しくなくて、何であろうか。(中略)それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。」
命を育むこと、これもまた、ただ時代の流れに従って在り方が変わってきているだけなのだろうか?